推し、燃ゆ。そして、光る。光りたい。
作中で私は、推しが燃えた時に、主人公も燃えたと思った。
このタイトルの燃えるは、炎上する事ではない。命を燃やす事だ。ありたい姿に忠実である為に、命を燃やして、心を燃やす我が推し。
話は変わるが、思考は言動となると思っている。2020年何も無いの嫌だと夏頃から言い続けていた私が、年末に駆け込み恋愛2件行ったのは全てそうだと思ってる。年内に火消ししたけどね。反論はまぁ受け付けません。
推しの言葉の中で刺さる言葉がある。Twitterに書き起こして、反芻して、解釈する。そうしたらもうその言葉は既に自分の潜在意識の中の一部である。
ふとした拍子に迷う時がある。一つ一つの選択に正解など無い中で、フラッシュバックする言葉なぞ、自分の潜在意識という貯蔵箱の中から出てくる言葉である。
自由に生きなければ意味がない。その言葉で確かに私は昨秋永遠に続くかと思っていたレールから降りた。
好きで見ているコンテンツには、影響力がある。少なくともそこから発されるメッセージに真剣に耳を傾けているうちは。
話を戻す。私は推しの言葉が好きだ。向上心に溢れているが故に自信が無くなる心。そんな心を自分の言葉で奮起する、そんな言葉が好きだ。
私の大好きな彼の言葉は、知らず知らずのうちに潜在意識の中にストックされている。自分はもっとできる。時間も体力も限られてるけど頑張れる。皆んなを幸せにするよ。と言ったアイドルの常套文句も、こちら側が真剣に受け止める限り、生きた言葉になるのだ。
推しが上を見続ける限り、その言葉は発し続けられるだろう。
推し、燃ゆ。を非ヲタの友人が読んだ感想の中で、推しはヲタクの背骨であり、業であり、合一なんだ、というものがあった。彼らの言葉を受け続ける限り、受け取り手として燃料を燃やし続けるほか無いのだ。
彼らにライバルがいて、燃え続ける限り、燃え続ける同い年である推し達は、どっちが自分の人生を高め、人を幸せにできるのか、という上でライバルなんだ。
推しは、燃え続け、やがて光になると信じて疑わない。だから、こちらも沢山の人を幸せにできる様な光にならなければならないのである。