母娘という絆 - 全ての頑張れる貴方へ -
「頑張る病」から解けた、、普通の時間に眠くなり、寝れなくてもベッドで身体が休まり、健康的に起きれるようになったし、お酒を呑まなくとも、お洒落なカフェでぼーっとしなくとも、休めるようになった。
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幼少期の親からの影響は凄まじく、良くも悪くも大人になっても潜在意識下に残る。独立してもなお、親から言われた言葉を内在化させて、無意識下に縛られる。
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「こうでなきゃいけない」が強かった時代、家庭の中で、必要な尊重なく育ち、独立した後、がむしゃらに田舎で商売をしてた親にとって、男女平等や多様性についてのアップデートは難しかった。
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自身の苦しみから教育を与え、教育を与えられた私は最新の価値観のもと、家庭ではアップデートされないギャップに一層苦しむ大学時代から今までだった。
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「女だから」「馬鹿だから」「出来ないから」を内在化させながら、自信をつけること、自分の意見を持つことは非常に困難だった。
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不安や劣等感、承認欲求が行動の原動力となり、自己実現の世の中で自身を問われた時に答えられることなどなかった。自信がない中でリスクテイクは難しく、目の前の相手に認められることだけで精一杯だった。
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そんな母娘。きっと超絶普遍的なことなんだろうと思う。人間にとって。
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社会に出た私は、「目の前の相手の承認よりも、事実として正しいか否かで物事が動いていくさま」「女性のライフイベントを理由に実現が難しかったことを、ライフイベントを加味した上で機械が均等に与えられる公平性」
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そしてらそれらを日々実現させる為の男性管理職達の努力を日々目にして、希望にして生きている。
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そんな家庭環境下では考えられなかった恵まれた環境の中で、仕事に精を出す一方、プライベートでもなかなか休めず、趣味も人生も日々がむしゃらに頑張り、生活や心身はぼろぼろで
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友人達に支えられる日々だった。
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潜在意識下に擦り込まれた意識は当人にとっては永らくの常識となり、最新の教育を受けてもなお、なかなかその常識を自身で覆すのは難しい。
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他者に指摘をされて、教育や体験を経て得た知識があって、初めてそれらがリンクして、当事者となる、気付く。
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自らが最も近くて大きい存在に傷つけられてきたことを自覚する時、人は大いに苦しみ、自身の正当性を見失いかけると共に解放される。生まれ変わる。
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そこから過去を正しく認識し、他者からの評価を自らの肯定に基づく評価で塗り替え、物事の認識・行動を改めるのには、莫大な労力を要する。
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自身の肯定が備わるまでには、自らの挑戦による成功や失敗体験が必要だし、それには心身の負担が大きい為、周りからのサポートを必要とする。
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そのサポートを得るために、周りに助けを求める勇気も必要とする。その勇気を手に入れる為には、無い自己肯定感、やぶれかぶれのボロボロの状態での葛藤が、自身を信じる強さが必要である。
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最悪なことにその時点で必要とされる根底の人の強さや周囲の人間環境は幼少期の環境に大きく左右される。
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社会には最新の価値観を研究し、実装するだけでなく、見つけ出し、救い、サポートする存在が必要である。自分も他人も信じられない時に生きること、未来に希望を見出すことは容易では無い。
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自暴自棄になって自死に手を伸ばすもの、社会を恨み人を傷つけるもの、精神をやむもの、向き合うプロセスを経ず、日本人お得意の耐え、気合いで乗り越えたものには、後世に同じようなことを遺す。
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負の連鎖は断ち切らなければいけないのだ。
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さて、1年ちょっとの向き合うプロセスを経て、似たような環境下で育った理解のある友人達と支え合いながら、ある程度の自己肯定感を持ってもなお、私は休むことが難しかった。
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誰かと一緒にいないと休めないのに、安定したパートナーを求めることは、休めずメンタルの安定しない私にとっては難しかった。
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休めない代わりに沢山の挑戦をした。正しい自己肯定と認識と、自己実現の為に、幼き頃からの憧れを、自分の意思で挑戦し、失敗した。何かが足りなかった。でも何が足りないのか分からなかった。
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でも何故か、実家に帰れる、と思って帰った。その理由は私には分からなかったが、ある種の何を言われても大丈夫、という気持ちで帰った。
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奇跡的なことに、私の倍生きている母が、私と同じように苦しみの末同じ気づきを得ていた。私は正式に母の本心から赦され、私も同様に母を赦した。
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共依存、支配的だった母から距離を取るのは物凄く大変だったし、苦労したばかりでなく、沢山の人からのサポートを得た。母も同じように祖父母との関係性を新たな物差しで見つめ直すことができたのだった。
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ボーナスだった。死ぬまで分かり合えると思ってなかったから。
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私は私自身ではなく、誰よりも畏れていた母に、私自身であることを尊重された。認められるための努力をしなくていいと言われた。
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帰りの高速バス、家に着いて家事を一通り勉強する中で、そして0:30を回った時。私は安心して眠りにつき、起きたかった時間に起きた。
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何時になっても1日の中で必要ない充足感が得られるまでは眠ることが出来ず、そんな状態から抜け出したいと、安心感を日常に求め、
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深夜2時、マッチングアプリをインストールし、しゃかりきに自分と人生に向き合う中では、相手を本当の意味で見る余裕は無かった。
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母に赦され、尊重され、品川駅に降り立った私の胸の中は初めての感覚で満たされていた。初めての感覚に不安になり、足元がおぼつかない気持ちになったが
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家に着き、バタッと倒れ込まずに家事をして、ご飯を食べて、TVを見て、勉強をすることができて、眠くなって
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徐々にこれがあるべき安心感であることを自覚した。
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私は母からの尊重によって1番欲しかった、外部に求め続けていた人生のパートナーからの安心感を、自身の中に宿すことができたのだった。
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先程、起きて珈琲を淹れて、朝ご飯の準備をして、ゆっくり珈琲を飲むことができた。1日や人生を過ごす上で、気合は必要なくなったが
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それでもどうしても手が止まらなくてこうやって今、書いている。「私版 母娘という呪縛」というタイトルにしようと思ったが、今や「私版 母娘という絆」にした。
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四半世紀生きた私でさえ本当に苦しかった自分に向き合うプロセスに、半世紀生きた母は正面から向き合った。まだまだ苦しいが、あともう少し。
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これからは畏れる存在としてではなく、世の中に沢山いる苦しみと対峙する存在の中で、1番大切な存在として、サポートをしたい、と思う。
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最後に私による私に向けた種明かし。この文章をインスタに投稿しようと思ってカメラフォルダを遡ったところ、赤鶴のマークの飛行機が出てきた。
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私の憧れであり、夏に挑戦した大きすぎる存在。
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あぁ、私は、この夏、自分の意思で自信を持って、自分の憧れであり、親の憧れである赤鶴の飛行機の会社や
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婚活をする一女性として、自信を持って「頑張った」と言えるようになったから帰れる、と思えたんだな、と思った。
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「頑張ったね」と言ってもらえなくても、それでも親から授けられた「頑張る」という才能を最大限に発揮した自信こそが、帰省する上での安心感だった。
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誇らしげに「頑張ってる」「頑張った」と言いに帰った不眠症の私は、「もう、頑張らなくていい。あなたはあなたのままで素晴らしいし、愛してる」と言われて帰って、よく眠れたのであった。
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大丈夫だ、もう健康に生きていける。ぐすん(本当に書きながら感極まって泣いている