もふさんの奮闘記

書いてみた。

僕ら

多分文章を書くべき時は、こういう時なんだろう。思い思いに人々が考えている時。

徒然なるままに書いていく。

平和という言葉は、悲しい文脈の上で発されることを知った。

生きるという言葉の重みがとんでもなく増した。過去の話が今の話になった。

過労で死ぬ、ネグレクトで死ぬ、虐められて死ぬ、とはまた違う死ぬ。

2020年秋、こんなの死んだ方がマシ、と思った。2021年春、生きてる意味がないや、と思った。生き甲斐を探して、自己実現について考えて、その方法に辿り着いた。

沢山の命を奪い、経済活動を停滞させ、今も尚猛威を奮うコロナ禍の中でも、平和さえあれば、今の発展した医療の中では、人の生をこの世に繋ぎ止めておける確率は高い。そして今もなお、その確率は上がっている。

戦争が始まり、生きるの文脈が変わった。

コロナ禍でさえも、大方明日を生きる権利は、1人1人の手元にあった。いざ戦争が始まると、そういうものはあっという間に手元から奪われて、国という組織の中で "生かされる"一つの駒でしかなくなる。

もしかしたら、自分自身が不自由にしていないからそう思わないだけで、平和な世の中でさえも、"経済の流れの中で生かされてる"だけに過ぎないかもしれない。

ただ、いずれにせよ言いたいことは、一旦戦争が始まってしまえば、"明日が来る"ことのハードルがとんでもなく上がる、ということだ。

恐らくこれまでもここまで取り沙汰されていないだけで、沢山の戦争や紛争が、我々が何気ない日常を過ごす中でも起こっていただろう。

SNSが広まったからか、それとも冷戦や北方領土など、歴史教育の影響か。

戦争の始まりを知り、まずは"もし身の回りに同じことが起きたら"、を考えた。今はただひたすらに、現地のことを思い、心を痛めている。

これを人はいつ死ぬかわからない、に昇華させ、このまま自己実現に突き進むのも一つ、ただいざ実現のタイミングでこれが起きたことについては、一旦考えよう、と思った。

春を迎えるこの季節の中、重い空気の中でもだんだん日は伸びて、空は高くなっていく。

季節は移ろう。